秋分・彼岸・ぼたもち
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    今日9月23日は、秋分の日です。

     

     

    秋分(しゅうぶん)は、二十四節気の第16。
    昼と夜の長さがほぼ等しくなる(後述の理由により厳密には昼の方が若干長い)。
    八月中(旧暦8月内)。

    現在広まっている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったときで、9月23日ごろ。
    暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。
    恒気法では冬至から3/4年(約273.93日)後で9月21日ごろ。

    期間としての意味もあり、この日から、次の節気の寒露前日までである。


    記念日

    日本ではこの日は国民の祝日の「秋分の日」となる。
    秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして閣議決定され、前年2月1日に暦要項として官報に告示される。
    天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。
    また、彼岸の中日でもある。


    昼夜の長さ

    秋分の日の太陽光の当たり方。
    秋分では太陽は赤道上にあるため、天文的な位置関係からは昼夜の長さが等しくなるように思えるが、実際は違う。
    春分と同様に、秋分では昼夜の長さがほぼ同じになる。
    『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。
    しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。
    日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。
    これは、次の理由による。

    大気差
    大気による屈折で太陽の位置が実際より上に見えるため、太陽が上に見える角度の分、日出が早く、日没が遅くなる。
    屈折は太陽が地平線に近いほど大きくなる。
    国立天文台では、太陽が地平線付近にある時の、その屈折角度を35分8秒と見積もっている。
    ここから計算される日出・日没の時間の差は約2分20秒である。

    太陽の視直径
    太陽の上端が地平線と一致した時刻を日出あるいは日没と定義しているため。これにより、太陽の半径の分、日出が早く、日没が遅くなる。
    ここから計算される日出・日没の時間の差は約1分5秒である。

    日周視差
    太陽の距離÷地球の半径は有限なので、視差により、0.7秒日の出が遅く、0.7秒日の入りが早くなる。

    秋分のずれ
    1日の間にも太陽の黄経は変わるため、秋分が1日のいつかにより昼夜の長さに差が出る。
    この効果は昼夜の長さを最大で±1.1分変える。
    ただし平均には影響を与えない。

     

    これらを合わせると日本において、日出は太陽の中心が地平線から昇るより3分25秒早く、日没は太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなる。
    したがって、秋分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分である。
    そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は秋分の4日程度後になる。

    秋分を含む日には、太陽は真東から昇って真西に沈む。
    赤道上の観測者から見ると、太陽は正午に天頂を通過する。
    北極点又は南極点の観測者から見ると、秋分の太陽はちょうど地平線と重なるようにして動き、昇ることも沈むこともない。

     

    七十二候

    秋分の期間の七十二候は以下の通り。
     初候
      雷乃収声(らい すなわち こえを おさむ) :雷が鳴り響かなくなる(日本・中国)
     次候
      蟄虫坏戸(ちっちゅう こを はいす) :虫が土中に掘った穴をふさぐ(日本・中国)
     末候
      水始涸(みず はじめて かる) :田畑の水を干し始める(日本・中国)

     


    秋分の日

    秋分の日(しゅうぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。
    日付は天文学上の秋分日。

    しばしば、「昼と夜の長さが同じになる。」といわれるが、実際は昼の方が若干長い。詳細は秋分を参照のこと。

    国民の祝日

    秋分の日は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)によって制定された。
    同法第2条によれば、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としている。

    休日としては、1878年(明治11年)改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)による秋季皇霊祭から続くもので、1947年(昭和22年)に廃止される休日ニ關スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)までこの名称だった。

     

    仏教各派ではこの日「秋季彼岸会」が行われ、宗派を問わず墓参りをする人も多い。
                        (Wikipedia)

     

     

    秋分の日

    秋分の日のイメージ画像


    毎年9月23日頃を秋分の日と言い「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」として1948年に法律で制定されました。
    また秋分の日は、祝日法の上で「秋分日」とされています。毎年2月1日に、国立天文台が作成する「暦象年表」という小冊子に基づき閣議で来年の(秋分の日の)日にちが決定されます。

     

    意味・目的
    祖先を供養する日

    秋分の日は春分の日と同様に、昼と夜の長さが等しくなる日です。
    しかし、春分の日よりも昼の平均気温は10度程高く、まだ夏の気配が残ります。
    秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。
    各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。

     

    起源・歴史

    自然信仰から生まれた祖先供養の日

    元々農村部では、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を祝う自然信仰があり、山の神様である祖先の霊を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていました。
    しかし、仏教の浸透とともに秋分は「秋の彼岸」として祖先を供養する意味を持ち始めました。
    明治時代に秋分の中日を「秋季皇霊祭〔しゅうきこうれいさい〕」と定め、宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着していきました。
    1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

     

    行事
    秋分の日と彼岸

    秋分(春分)の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言い、その7日間を彼岸と言います。
    秋分・春分はその中間に位置するため「彼岸の中日」と呼ばれています。
    また「彼岸」とは元々仏教用語で「煩悩に満ちた世界から解脱した悟りの世界」を指します。
    これは、簡単に言えば「亡くなった先祖達の霊が住む世界」のことです。
    その祖先の霊を供養するために、私たちはお彼岸になると「お墓参り」へ行きます。
                        (日本文化いろは事典)

     

     

    彼岸
    彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。
    この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。

    最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。

    俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な六つの徳目「六波羅蜜」を1日に一つずつ修める日とされている。


    起源

    語源

    サンスクリット pāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。

    Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。
    悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。

    ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。

     

    由来

    彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多くみられる。

    浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられている(西方浄土ともいう)。

    春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。

    もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。
    心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。

    しかし後述のように、天皇の詔として始められた行事であったが、いつの時代も人として、生を終えた後の世界への関心の高いことは同じであり、いつの間にか生を終えていった祖先を供養する行事として定着するに至った。

    彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。
    日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきものなのである。
    仏教語の彼岸は後から結びついたものであるという説(五来重による)もある。

     

    歴史

    806年(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。
    このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。


    供物

    日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。
    これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。

     

    時節

    気候

    日本の気候を表す慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸のころまで続き、彼岸をすぎるとやわらぐという。

     

    季語

    俳諧では「彼岸」は春の彼岸を意味し、「彼岸」「彼岸前」「彼岸過」「中日」は春の季語である。

    これに対し、秋の彼岸は「秋彼岸」「秋の彼岸」という。
                        (Wikipedia)

     

     

     

    ぼたもち

     

     

    ぼたもち(牡丹餅)とは、もち米とうるち米を混ぜたものを(または単にもち米を)蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに餡をまぶした食べ物である。
    米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある。
    同様の食べ物に「おはぎ」(御萩)あるいは「はぎのもち」(萩の餅)と呼ばれる食べ物があるが「ぼたもち」との関係については諸説ある。

     

    概要
    かつて砂糖が貴重品であった時代には塩餡が用いられていた。
    来客のもてなしや田植えの後の寄り合い、子供のおやつ、また法要の際などに供された。
    こし餡のものとつぶし餡のものがある。
    小豆餡のほか、きな粉を用いたもの、青海苔を用いたもの、胡麻を用いたもの、ずんだを用いたものなどもある。
    表面に餡をまぶす以外のものでは、にぎり飯の具材のように中に餡を詰めることもある。

    多くの和菓子にいえることだが、隠し味として餡にごくわずかの塩を加えるか、搗いたものを握るときに手を適度な塩水に浸してから握ることで、より一層甘味が引き立つ。

    昔はぼたもちのことを「かいもちひ(かいもち、掻餅)」と呼んでいた。
    ただし、一部では蕎麦がきを指すとする説もある
    (参考「いざ、かいもちひせむ」(宇治拾遺物語))。
    土用入りの頃に作る場合、土用餅という言い方もする。
    英語でも日本語のまま「Botamochi」と呼ぶ。


    名称

    「ぼたもち」と「おはぎ」の関係
    ぼたもち(牡丹餅)とおはぎ(御萩)の関係については諸説ある。
    ●春のものを「ぼたもち」、秋のものを「おはぎ」とする説
    ・語源については、それぞれ、「ぼたもち」については牡丹の花に似せてこれを見立てたものであるとする説があり、
    「おはぎ」については萩の花が咲き乱れている様子に見立てたものであるとする説がある。
    その上で春のものは「ぼたもち」、秋のものは「おはぎ」と名前が異なっているだけであるとする説がある。
    ・なお、東京では春秋ともに「おはぎ」と呼んでいたとの指摘がある。

    ●もち米を主とするものが「ぼたもち」、うるち米を主とするものが「おはぎ」であるとする説
    ●餡(小豆餡)を用いたものが「ぼたもち」、きな粉を用いたものが「おはぎ」であるとする説
    ●その他の説
    ・「ぼたもち」は、ぼたぼたした感じに由来するという説
    ・『物類称呼』(1775年)では「おはぎ」は「女の詞」であるとする(女房言葉を参照)

    また、地方によって
    ●こし餡を使ったものをぼたもち、つぶ餡や煮た小豆そのままを使ったものをおはぎ(逆の場合もあり)
    ●餡ではなく中の米の状態によって区別し、完全にもちの状態まで搗いたものをぼたもち、搗いた米の粒が残っているものをおはぎ
    ●二口程度で食べられる小さいものをおはぎ、それより大きいものをぼたもち

    とするなど、さまざまな場合がある。

    小売店等では春に「おはぎ」、秋に「ぼたもち」として名の由来とは逆で販売しているところもあり、また食材事典などでは食品としては同じものであり「ぼたもち」と「おはぎ」は名前が異なるだけで同じものを指すものとして扱われている場合も多く、ぼたもちとおはぎとの区別は次第に薄れている。

     

    季節ごとの呼称

    上記の「同じ物を春はぼたもち、秋はおはぎと呼ぶ」とする説では、(現代ではほとんど使われていないものの)夏と冬にも正式な呼び名が存在する。ここでは季節ごとの「ぼたもち」の呼び名とその由来を挙げる。
    春 牡丹餅
    牡丹の花が咲く季節、すなわち春の彼岸に、神仏や先祖への供物とされた小豆餡の様子を、牡丹の花に見立てたことから。和漢三才図会には「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」と記されている。
    夏 夜船(よふね)
    ぼたもちは、もちと作り方が異なるため、「ペッタン、ペッタン」という音を出さずに作ることができ、隣に住む人には、いつ搗いたのか分からない。そこで、 「搗き知らず」→「着き知らず」と言葉遊びをして、夜は暗くて船がいつ着いたのか分からないことから。
    秋 御萩
    牡丹餅と同じく、小豆餡の様子を秋の彼岸の時期に咲く萩の花に見立てたことから。
    冬 北窓(きたまど)
    夜船と同様に、 「搗き知らず」→「月知らず」と言葉遊びをして、月を知らない、つまり月が見えないのは北側の窓だ、ということから。

     

    ことわざ

    「ぼたもち」という言葉が使われることわざは多く、日本人の生活や意識に密着した食べ物であったことがうかがえる。
    ●棚から牡丹餅
    努力することなしに予期しない幸運が舞い込んでくること。「たなぼた」と省略することもある。「開いた口に牡丹餅」ともいう。
    ●牡丹餅で腰打つ
    幸運が向こうから舞い込んでくること。「牡丹餅食って砂糖の木に登る」ともいう。
    ●牡丹餅の塩の過ぎたのと女の口の過ぎたのは取り返しがつかない
    牡丹餅は、餡の甘味を強くするために塩を少量入れるが、入れ過ぎると味が壊れて取返しがつかない。口数が多い女性をたしなめる下の句を強調するための引き合いとして。
    ●牡丹餅は米 辛抱は金
    辛抱が何よりも大切であるということ。
    ●牡丹餅は棚から落ちてこず
    思いがけない幸運が転がり込むなどという偶然は、まず起きないということ。

     

    文化・習俗
    大きく作った牡丹餅を赤子に踏ませ、成長を祈る習俗がある。
    子供が産まれて3日目に、母親の乳が出るように「みつめのぼたもち」と呼ばれる大きなぼたもちを食べさせる地域がある。
    戦国時代の武将立花宗茂の正妻である立花訐藺紊蓮彼女の墓石の形状から現在では「ぼたもち様」とも呼ばれている。

     

    きな粉と胡麻
    文永8年(1271年)9月12日、日蓮が鎌倉の龍ノ口の刑場へ引き立てられていった。
    急を聞いた桟敷の尼が、何か最後のご供養をと考えたが、餡を作る時間がなく、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという。
    日蓮は難を免れ、佐渡に流罪となった。
    この故事にちなみ、日蓮宗では陰暦9月12日に、「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供える。
    また、「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などとも呼ばれている。

     

    歴史
    おはぎの原型はもち米と小豆を炊いたもので作られていた。
    しかし、明治以降、砂糖が庶民の手の届くものとなり、次第に現在のように甘いおはぎが作られるようになった。
    また、小豆には邪気を払う効果があると信じられていたために、邪気を払う食べ物としての先祖の供養の際にお供えをしたのがはじまりとされている。
    このため、彼岸や四十九日の忌明けに食べる風習が定着したものと考えられる。

                        (Wikipediaより)

     

    posted by: 1513neoya | とはずがたり | 01:46 | comments(0) | - |