明治神宮御苑 苑内 南池 御釣台
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    6月13日

     

    明治神宮御苑

     

    開苑時間

     3月〜10月 午前9:00〜午後5:00

    11月〜 2月 午前9:00〜午後4:30

     

    御 苑 維 持 協 力 金    500円

     

     

    苑内はこれまでとは違って人と会いません。

    静かです。

     

     

    樹々の間から池が見えます。

    南池です。

     

    (平成23年6月23日に訪れた時の写真です。)

     

        南 池 (なんち)

     

    面積凡そ八、000平方米

        (約二、四00坪)

    この奥の清正井を

    主な水源とし、睡蓮の

    花咲く夏の頃の眺めは

    殊に美しく、冬は水

    鳥の楽園です。

     

     

    南池には未草(ヒツジグサ)が咲いています。

     

    通称睡蓮は正しくは未草です。

     

     

    未草

     

     

    これは河骨(コウホネ)ですか。

    花が咲いていれば可愛い黄色の花が見られるのですが・・・

     

    コウホネ

     

        河骨の花(季節の花300より)

     

    コウホネ

     

        河骨の花(季節の花300より)

     

     

    未草

     

     

    眺めていますと、東京のど真ん中とは思えません。

    信州の山間にいるみたいです。

     

     

    未草

     

    (平成23年6月23日に訪れた時の写真です。)

     

     

         御 釣 台

     

    明治時代に天皇様の思召により設けられ

    皇后様には時々御釣を楽しまれたと伝えられています。

     

     

    御釣台に立ちますと鯉が寄ってきます。

     

    昭憲皇太后があまりにも釣れないので鯉や鮒を入れたとのことです。

     

     

     

    明治神宮の建てられた理由と「明治天皇と昭憲皇太后」の関係

     

     

    江戸時代が長く続いた日本にも、ふたたび天皇に主権が戻り、実質上の天皇(君主)による政治が行われるようになりました。

    江戸時代が終焉を迎え、「明治天皇」による新たな政治が始まり、様々な法律や制度が制定され、新時代の日本の根幹となる政治の基盤を作って行きます。

    しかし、明治天皇も人です。

    いずれ、寿命を迎えます。

    明治45年(1912年)明治天皇がご崩御(お亡くなり)されます。

    この時、明治政府では明治天皇の偉業と威徳を称えて明治天皇にまつわる「銅像」や「博物館」などを造ることを企画します。

     

    次に明治天皇に取って代わって政治を行ったのが、なんと!明治天皇の奥様であった 「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」です。

    取って代わるといっても、政治の全てに介入したワケではないのですが、現在の「お茶の水女子大学」を代表校として国民のため(特に女性のため)に学校をいくつも設立しています。

    また、日本赤十字に大量の寄付を行い「昭憲皇太后基金」を設立し、日本赤十字の設立に大きく貢献しています。

    日本女子の社会進出の第一歩を築くべく「着物は自由に動くことができず女性の行動を制限する」と宣言され、自ら洋服を好んで着られ、それまでの女性の立場を大きく変化させた人物でもあります。

    しかし、新時代の日本の根幹を作るべく目覚しい貢献をした昭憲皇太后も大正3年(1914年)ご崩御されます。

    夫である明治天皇のご崩御から、わずか2年後のことです。

    明治天皇のご崩御を称えて、何かを造ろうと計画を練っていた矢先のご崩御でした。

    そこで、明治政府は新時代の日本に多大な貢献をしたお二人を称え、同時に祀るべく、大正天皇の許可を得て、「社」を造る計画を企画し実行へ移します。

    すなわち、お二人を神様としてお祀りしようということです。

     

    明治神宮の造営工事は5年間、述べ13000人が従事

    昭憲皇太后が、ご崩御された翌年の「大正4年(1915年)」に造営工事が始まります。

    この工事には、日本全国から国民が13000人も協力したといいます。

    そして、大正9年(1920年)11月1日に約5年の歳月をかけて、ようやく明治神宮は完成を迎えることとなります。

     

    明治神宮が現在の場所に建てられたワケは??

    すでにテレビやマスコミのパワースポットの報道ニュースなどで、知ってる方も多いと思いますが、明治神宮が建立されている現在の場所は、その昔、徳川家の家臣であり、大名であった加藤家・井伊家の下屋敷があった場所です。

    この場所は、昔から騒がしい江戸に隣接していながらも緑が多く、閑静な場所として知られており、明治天皇やその奥様である昭憲皇太后も大変、好まれた場所であります。

    しかし当時、今の明治神宮が建ってる場所は、田畑や原っぱが一面に広がっており、現在のような森林はなかったといいます。

     

     

    現在の森林は1本1本手植えされた植林で、つまりは人工的に造られた杜(森林)ですが、昔から御苑は存在し閑静な土地であったのには違いはありません。

    このような理由から迷わず、この地に明治神宮の建立されることとなったのです。

                        (明治神宮・御朱印より)

     

     

    昭憲皇太后

     

     

    昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) -大正3年( 1914年)4月9日) は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。

    諱は美子(はるこ)。

    お印は若葉

    旧名は、一条美子(いちじょう はるこ)。

    欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。

    皇后として史上初めて洋装をした。

    明治天皇崩御に伴い皇太后となり、大正3年(1914年)崩御(64歳)。

    嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。

     

    皇后時代

    嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。

    生母は側室・新畑民子。

    右大臣・一条実良(1835−1868年)の妹。

    徳川慶喜の婚約者であった千代君、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子とは、義理の姉妹にあたる。

    はじめの名前は勝子(まさこ)。

    通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。

    安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。

    慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。

    伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦したと言われている。

    明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。

     

    「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」


    從三位藤原朝臣美子
    右中辨藤原朝臣長邦傳宣
    權中納言藤原朝臣公正宣
    奉 勅宜爲女御者
    明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世


    ―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

    (訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、

     

    この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。

    当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮と改められた。

    この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。

     

    皇太后時代

    明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王の践祚および皇太子妃節子の立后と同時に皇太后となった。

    大正3年(1914年)4月9日2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため崩御。

    公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。

    同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され、翌年5月1日に、明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。

    陵墓は京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。

     

     

    業績

    維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。

    慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。

     

    赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決められたという。

    明治45年(1912年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜した。

    赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Empress Shōken Fund) を創設した。

    この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。

    皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、明治19年(1886年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた。

    洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。

    能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。

    和歌(中国の詩である漢詩に対して、上代から行われた日本固有の詩歌で、五音と七音を基調とする長歌・短歌・旋頭歌・片歌などを総称としていう)や古典文学にも造詣が深く、作られた短歌(作歌)は3万6000首にも上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。

    明治8年(1875年)2月に東京女子師範学校(お茶の水大学)、明治41年(1908年)に奈良女子高等師範学校が設置されたことに伴い、東京女子高等師範学校と改称。

    明治11年(1878年)10月に、式部寮雅楽課二等伶人東儀季煕による壹越調律旋の譜が付され、現在も校歌として歌い継がれている。

    また、「女子高等師範学校記事」によると明治29年(1896年)に、高等師範学校に依頼して御歌の撰譜をし、西洋風の旋律に改められた。

    この譜をつけた「みがかずば」の和歌、同時に下賜された日本最初の校歌でもあり、明治19年(1886年)尋常小学校の小学校令により設置された満6歳以上の児童に初等普通教育を施した義務教育の旧制の小学校では、修業年限は初め4年であったが、明治40年(1908年)からの6年制の変革によって、唱歌としても広く歌われた。

                        (Wikipediaより)

     

    posted by: 1513neoya | とはずがたり | 03:20 | comments(0) | - |