小暑 七夕
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    今日7月7日は小暑であり、七夕でもあります。

     

    小暑(しょうしょ)は、二十四節気の第11。
    六月節(旧暦5月後半から6月前半)。

    現在広まっている定気法では太陽黄経が105度のときで7月7日ごろ。
    暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。
    恒気法では冬至から13/24年(約197.84日)後で7月7日ごろ。

    期間としての意味もあり、この日から、次の節気の大暑前日までである。


    季節

    梅雨明けが近付き、暑さが本格的になるころ。
    『暦便覧』には「大暑来れる前なればなり」と記されている。

    蝉が鳴き始める。

    この日に至っても梅雨が入らない場合は「梅雨入り」の発表は特定できずとなる。
    それゆえに、四国地方、北陸地方、近畿地方などでは「梅雨入りなし」となることがある。

    小暑あるいは大暑から立秋までの間が暑中で、暑中見舞いはこの期間内に送る。
    小暑の終わりごろに夏の土用に入る。

    小寒と互いに半年後・半年前である。
    大寒と大暑も同じ関係である。


    七十二候

    小暑の期間の七十二候は以下の通り。
     初候
      温風至(おんぷう いたる) : 暖い風が吹いて来る(日本・中国)

    温風至(あついかぜいたる)イメージ画像
     次候
      蓮始開(はす はじめて はなさく) : 蓮の花が開き始める(日本)

    蓮始開(はすはじめてひらく)イメージ画像
      蟋蟀居壁(しつしゅつ かべに おる) : 蟋蟀(コオロギ)が壁で鳴く(中国)
     末候
      鷹乃学習(たか すなわち がくしゅうす) : 鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える(日本・中国)

    鷹乃学習(たかすなわちわざをなす)イメージ画像
                        (Wikipediaより)

     

     

     

    小暑
     
      
    七夕が行われる7月7日頃(令和元年は7月7日)。
    および大暑までの期間。
    太陽黄径105度。
    夏至から数えて15日目頃。

    暑さがどんどん強くなっていくという意味があり、この頃から暑さが本格的になってきますが、梅雨の終わる頃で、集中豪雨が多く発生する時季でもあります。
    この頃から暑中見舞いを出し始めます(正式には大暑から)。

    梅雨が明け、強い日差しと共に気温が一気に上がる時季のため、体調を崩しやすくなる頃でもあります。
    天気予報やニュースで「小暑」という言葉を耳にしたら、本格的な夏を迎える合図だと思ってください。
    暑さを乗り切るために、しっかり食べて 体力をつけておきたいですね。

    この頃は蓮の花が咲き始める頃でもあります。
    少し風流に蓮観賞に出掛けてみるのもいいですね。
    午後には花がしぼんでしまいますので、行かれる時は朝の早い時間に。

    暮らしのすべてが夏仕様に変わる頃
    小暑を迎えると、衣食住のあらゆるものが夏向きのものに変わります。
    部屋の模様替えや食器、ファブリックなどを夏用に替えましたか? 


    アゲハチョウ写真

     

    白南風(しらはえ)
    梅雨が終わる頃に吹く南風のこと。
    この風が吹いて空が明るくなることから「白南風」といいます。
    ※7〜8月に吹く南風を「白南風」という地方もあります。
                        (日本の行事・暦より)

     

     

     

    七夕

     

    七夕の笹飾りが並ぶ寺院

     

     

    七夕(たなばた、しちせき)は、中国、台湾、日本、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。
    五節句の一つにも数えられる。
    旧暦では7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。
    日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。

    古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。
    これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。

    元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

    その他、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。


    織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
    その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
    また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、
    「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」
    (「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている。

    日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
    また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

     

    日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。
    その後平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。

    乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。
    古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。
    この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。
    宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を四脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉一枚に金銀の針をそれぞれ七本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。
    一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。
    また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。
    二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。
    江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。
    なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

     

     

     

    風習

    日本

    ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。
    午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

    全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。
    短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。
    「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。
    中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。
    さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。
    また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

    サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、七枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。
    俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。

    このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。
    しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。
    地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。

    富山県黒部市尾山地区では、平成16年7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。
    子供たちが満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。
    夕刻から姉さま人形を板にくくり付け地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている。

    地域によっては半夏生の様に農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。
    そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。
    この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

    沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。
    墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。
    また往時は洗骨をこの日に行った。

    他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。


    韓国

    韓国では七夕をチルォルチルソッ(7月七夕)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられている。
    その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。
    その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。
    また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。
    チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられている。
    また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。
    また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。
    七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。
    この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。
    また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む。

     

    中華圏

    以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。
    よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。
    これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。
    女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。
    しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。
    しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。
    宋元時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。

    『荊楚歳時記』によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」
    (七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。
    喜子とは一種の小型のクモである。
    「東京夢華録」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」
    (婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。
    杜甫『牽牛織女』もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。
    ”劉言史『七夕歌』:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”

    現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。
    多くの商店や人々は「中国のバレンタインデー(情人節つまり恋人の日)」と呼んでいる。
    しかし七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートという内容は無いため、民俗専門家は「情人節」は不適当で、「愛情節」と呼ぶべきだとする。
    中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっており、伝統習俗は廃れており、人々の七夕に対する情熱は西洋の舶来品の「情人節」とは比べ物にならない。
    台湾や香港でも西洋文化の影響を受け、七夕の状況は憂うべきものである。

     

    江南

    江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。
    月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。
    また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。
    唐代詩人の林杰の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。

     

    西南

    爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。
    若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあう事を願う。

     

    胶東(こうとう)

    胶東地区では七夕に七神姐を拝んだ。
    女性たちは新しい服を着て、一つの堂に集まり、七姉妹となった。
    少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。

     

    広東

    広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)
    6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。
    七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。
    七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。
    女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。
    八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。
    また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や二つの星を拝む。
    また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。
    深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。
    そして一通り楽しんだ後解散となった。

     

    閩南
    (北は渤海と黄海を隔てて旅大半島に向かい合う半島である。主要都市は青島、煙台、威海など。膠東半島は山東半島の一部である。)

    閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。
    閩南の習俗では七夕の日にザクロとシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。

     

    香港

    現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。

    坪洲と西貢には七姐廟、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。

     

    台湾

    台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。
    七娘媽は子どもの守護神である。
    幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。
    また台南や鹿港ではzh:做十六歲という成人式をこの日に行う。
    近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。


    日本の七夕祭り

    貞享4年(1687)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。
    その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。
    その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。

    現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。
    神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。
    多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
    また、青森の「ねぶた」や「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」も七夕祭りが原型である。
                         (Wikipediaより)

     

     

    織女星と牽牛星の伝説

    説話

    こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。
    織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。
    夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。
    めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。
    このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に一度、7月7日だけ天帝は会うことを許し、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。
    しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。
    星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。
    また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。
    催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。

    古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。
    それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。
    その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。
    その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

     

    物語

    昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。
    天の神様には、一人の娘がいました。
    名前を織姫と言いました。
    織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。
    織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。
    色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。
    彦星は、とても立派な若者でした。
    織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。
    二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。
    二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。
    でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。
    すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。
    「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」
    「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます。」
    神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。
    でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。
    「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」
    それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。
    天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。
    そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

     

    星空

    織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。
    前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。
    七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

    中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。
    そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。
    ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。

    グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。
                        (Wikipediaより)

     

    七夕 
    旧暦の7月7日の夜に行われる行事。
    星祭りとも呼ばれる、五節句の一つです。

    中国に古くから伝わる、牽牛星(けんぎゅうせい・わし座のアルタイル)、織女星(しょくじょせい・こと座のベガ)の伝説に基づいた星祭りの説話と日本古来の農耕儀礼や祖霊信仰と結びついたと言われています。
    ※月遅れの8月7日に行う地方もあります。

    現在は7日の夜の行事になっていますが、本来は6日の夜に、短冊をつけた笹竹を軒下に飾り、7日の朝に川に流します。
    ※環境に配慮し、海や川に流すのはやめ、それぞれの地域の規則に従いましょう。
    お焚き上げをしてくださる神社もありますので、ご近所の神社に尋ねてみてください。

    願い事を短冊を書いて笹竹に吊るす風習がありますが、これは、竹竿に糸をかけて裁縫や習字の上達を星に祈るとかなえられるという、中国の乞巧奠(きつこうでん)の習わしからきているようです。
    平安貴族たちが、これをまねて、梶の葉に歌を書いたのが始まりです。

    江戸幕府は七夕を五節句とし、幕府の式日と定めました。
     大奥では、瓜・桃・菓子などを白木の台に盛り、その四隅に笹竹を立て、詩歌を書いた短冊や色紙を結びつけました。
    それが一般の人々の風習として広まり、文筆や針仕事の上達を願いを書くようになったようです。

    【七夕のお飾り】
    短冊 紙衣 巾着 網 屑籠 吹き流し 折り鶴 星飾り 菱飾り 紙でんぐリ など

    短冊

    ・願い事を書いた短冊を結んだ笹竹を軒下に飾る。
    ・星を眺める。
    ・そうめんをいただく。
    ※過ごし方・お祝いの仕方は、それぞれの家、地方によって異なります。
    また、このようにしないといけないというものではありませんので、これらを参考に、楽しく過ごしてください。

     

    そうめん
    後醍醐天皇の時代、宮中における七夕の儀式で、そうめんの原型といわれる「索餅(さくべい)」を供えたという記述があります。
    索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。
    やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、七夕にそうめんを食べるようになったようです。
    ※7月7日は「そうめんの日」です。

    七夕そうめんイメージ
                        (日本の行事・暦より)

     

    posted by: 1513neoya | とはずがたり | 03:03 | comments(0) | - |